2019年5月29日水曜日

富士講碑ー大月市七保町(2)

大月市七保町浅川
35.654701,138.972668

多摩方面から南下する富士講者のルートとも言える七保町の富士講碑だ。富士の笠印も凛々しく、村内の安全祈願をした地元の建立であろう。
ここにも、富士の菩薩様が祀られている。時代は前出と同じ文久であることから、七保の富士信仰が隆盛した時代であろう。



村  村内安全
(笠印)仙元大菩薩
上  文久二壬戌年 (1862)
 藤原周清
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富士講碑ー大月市七保町(1)

大月市七保町葛野
35.626378, 138.959913

多摩方面から南下する富士講者のルートとも言える七保町の富士講碑だ。
南無仙元大菩薩の銘に明治以前の時代を診ることができる。また、仙元の表記は富士講によるものだと判断できようが富士講の笠印は見られない。
記されている「文久元年」は1861年と幕末に近い江戸末期である。この時代は、明治政府による廃仏毀釈に影響されない神仏の表記である「大菩薩」が真骨頂だとも言える。




(日)開山畫行藤佛菩薩
南無仙元大菩薩 村?
(月)十二世藤原徳永 同所
文久元辛酉歳十一月 (1861)
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春日神社跡

富士講碑ー大月市賑岡町

大月市賑岡町強瀬
35.616266, 138.956715

大月市と言えば甲州街道から富士道への分岐点であり、また多摩方面から南下する富士講者がたどったルートがあり信仰の合流点とも言える。
この地の北方にある七保地区にも多数の石碑があることから道者の導線を認識できる。

新しい石碑は御嶽神社跡とあるが、その脇には富士浅間大神の石碑がある。山岳信仰の合祀なのだろうか?



冨士浅間大神
扶桑教会社中
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2019年5月18日土曜日

富士講碑ー浅間社:大我講

市川三郷町市川大門字別荘
35.544981, 138.508630

大我講の本拠地である浅間社。大門碑林公園から四尾連湖へ向かう山道の途中にある。
富士講が廃れ、同時にこの社も廃れている。境内には多くの富士講碑が寄進されていて、当時の繁栄ぶりが伺える。時代は明治33年から昭和初期まである。
浅間社の上座にある石碑は「浅間神社」と「藤森稲荷大明神」だ。



当社近くの山道脇に小御嶽と龜岩八大龍王の石碑が迎えてくれる。


※小御嶽とは、富士山が現在の5合目ほどの高さであった古代の呼び名である。
※龜岩八大龍王とは、富士山8合目近くにある大きな溶岩の岩のことで水の神である。富士の湧水はこの辺りから染み込んだものと考えられていた。



同時に動画も記録した
Music by H.Dobashi



2019年5月11日土曜日

富士講碑ー身延町中ノ倉(2)

身延町中ノ倉
35.474776, 138.551471

富士講碑:講紋(山臣講)、御中道十四度大行成就、中之倉惣講中、文政12年(1829)
御中道とは富士山の5、6合目を水平に一周する難関な修行だ。富士講員の誰でもが行うことを許されてはいない上級コース。




富士講碑ー身延町中ノ倉(1)

身延町中ノ倉、不動滝横、国道300号脇
35.475203,138.539989

富士講碑:冨士岳神社、講紋(山臣講・鳴沢村)、西島村の石工・笠井乙吉、



富士講碑ー身延町古関

身延町古関1382
諏訪神社
35.475348, 138.525758

富士講碑:仙元宮、笠印(大我講)、嘉永7年(1857)






富士講碑ー身延町根子

身延町根子3463
35.495265, 138.564160

富士講碑:御内八海道供養碑、嘉永元年(1848)、寄付金名簿