2019年7月21日日曜日

富士塚ー山梨市小原西

山梨市小原西
35.701840, 138.694371

東山聖苑駐車場の北に位置する。
昭和27年発行の日下部町誌の地図にもはっきりと表記があることから富士塚として判断して良いだろう。
しかし、これを塚と呼べる規模なのかは些か疑問だ。想像ではあるが削平された後に石碑が残ったのかもしれない。
石碑には享保十三年(1728)とあり、江戸富士塚の始まりより古い。



水元
享保十三年戌申 天八幡北村願主清兵衛
奉建立冨士仙現七々度参詣願成就供養之処
三月十六日同所清左衛門
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調査動画

2019年7月19日金曜日

富士塚ー笛吹市石和町井戸

笛吹市石和町井戸
35.618373, 138.605162

富士山のお鉢(噴火口)を模した富士塚だ。お鉢の周りには5体の地蔵が噴火口の中心に向かって立っている。
地元民によって現在も祭り事が行われている。







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浅間塚-甲州市塩山三日市場

甲州市塩山三日市場
35.715181, 138.706953

東西45m、南北31m、高さ約5m

県下最大の富士塚である。本地は旧秩父往還と道者街道とが重なる要衝である。富士講らしい石碑等はないが、頂部にある浅間社の社殿裏には石祠や立石がある。その中に、疱瘡神がある。疱瘡(ほうそう)とは病名で天然痘のことだ。日本においては1955年に根絶されたが昭和中期までは多くの死者を出した難病である。この難病を富士の神の力で滅する祈りが石祠にはみえるのだ。
石祠の詳細は、疱瘡神美御前 明和七年七月吉日(1770年)と、とても古い時代である。富士講が築造した最初の江戸の富士塚が1780年なので、江戸富士塚に影響されない時期の富士塚である。




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2019年7月16日火曜日

浅間塚―甲州市塩山下萩原

甲州市塩山下萩原
35.702084, 138.746895

専門家によると浅間塚(あさまづか)と呼ぶらしい。現在は浅間塚公園として整備されている。しかし、石積みなど原型を変形させて整備されていることに些か疑問は残る。
1935年の「甲斐志料集成」によると底周囲61m、高さ5m、頂部径5mで県内ではベスト5に入る規模だ。また、1974年に農道整備よって一部が道路用地となったが、同時に掘削調査をすると和鏡一面を発見した。つまりは、古墳流用型の富士塚であることが解った。この時の調査で、頂部にあった石碑2基は塚の麓に移動されたままで、平成22年の公園整備の折に元の頂部に戻されたが古写真と比べると左右逆転している。学識経験者各位に「しっかりしてくれ!」と声を掛けたい気分だ。
ちなみに、この地から富士山を遥拝することはできない。





甲斐志料集成12より転写


記録動画



2019年7月15日月曜日

藤塚―笛吹市御坂町尾山

笛吹市御坂町尾山
35.613164, 138.676662

富士市博物館による富士塚調査報告書平成7年度のP48によると、当地は藤塚(富士塚)であるという。頂部に浅間神社があり塚は消滅と記載されているが稲荷神社が正解だ。どうやら現地調査をせずに記載された可能性を拭えない。
社殿が載っている盛土がどうやら富士塚ではないだろうか。頂部を削平して社を建てたのかもしれない。周辺は農地整理されていて傾斜がある。背面から観察すると盛土の形状を確認しやすい。
周辺には花鳥遺跡の富士塚などの分布から見ても興味深い。



富士塚分布図

藤塚―富士川町舂米

富士川町舂米
35.574766, 138.438750

立て看板には藤原氏の墓(塚)であることから「藤塚」と呼ばれているとの旨がある。しかし、この塚の頂部を見ると富士塚の特徴である「お鉢」、つまり富士山の火口を模した凹みがある。一方、側部に新しい穴が空いていて、多分キツネの営巣であろうが、この穴によって頂部が陥没した可能性もある。
富士信仰の富士塚であるとは言い切れないが、贔屓目に見て富士塚であって欲しいと願っている。



調査動画

2019年7月14日日曜日

富士講碑―甲州市塩山一ノ瀬高橋

甲州市塩山一ノ瀬高橋
35.832740,138.841734
二之瀬集落の北、一之瀬川右岸道脇

一ノ瀬高橋は平成の時代まで山一講として代参講が残っている。
本石碑の頂部は富士山の三峰の形をしていて笠印を模している。なかなかユニークで粋なデザインだ。また、「浅」の字の両側には日輪、月輪があり消えかかっている。
近くの鶏冠神社(祭神:金山彦命)の神殿には富士浅間神社の御札が掲げられている。









2019年7月7日日曜日

富士講碑―市川三郷町大塚(熊野神社南)

市川三郷町大塚
35.569215, 138.538573

市川三郷町大塚にある熊野神社南の道路脇にこの富士講碑は建立されている。
上部の講紋は大我講であるが、碑文を読むと大我講と丸仙講を合わせて大櫻講として大塚(地元)で活動する記念だとある。
大我講は富士講の扶桑教(身禄派)の一派である第15分社の大規模な丸仙講から地元の市川大門村の大寄友右衛門によって分派された。また、大櫻講の大櫻とは桜峠にある桜の木や木之花咲耶姫命を意識していそうだ。(木之花=桜)



富士講碑―桜峠

市川三郷町大塚 桜峠
35.555760,138.533365

尾根の上に4基の石造物がある。石祠1基と石碑3基だ。かつて桜峠は桜の名所として地元では有名だったが、今はハイキングであっても訪れる人々は少ない。


向かって左端には平成六年の植樹記念碑。講紋は大我講


大我講の講紋ながらも丸高講と左下にある。
明治二九年三月建立


石祠の右は、丸仙講の講紋。
左に扶桑教丸仙社中
下部には地元の大塚講中


桜峠は赤色★マーク


記録動画